ムソルグスキー唯一のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』開幕 トレリンスキ×大野和士 新国立劇場

ムソルグスキーが完成させた唯一のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』が開幕した。

この作品はをポーランド国立歌劇場と新国立劇場の共同制作。
皇帝ボリス・ゴドゥノフを題材に有力者たちの策謀と民衆の叫び、そしてボリスの苦悩がシェイクスピア史劇のように展開するプーシキン原作の悲劇を、近代性に満ちたムソルグスキーの斬新な音楽が緊迫感の中に綴る。 『ボリス・ゴドゥノフ』は、日本での制作・上演が極めて稀で、日本の上演団体による演出付きロシア語全曲上演は史上初。滅多に見られない、貴重な上演。オペラの旗手トレリンスキ×大野和士、時代を問う新プロダクションとなっている。

映画監督出身のトレリンスキは現代的な解釈と美学を持ち、メトロポリタン歌劇場などで目覚ましい活躍をしている演出家。大野和士芸術監督とのタッグは、2018年にトレリンスキがインターナショナル・オペラ・アワードに輝いた世界的話題作『炎の天使』以来。ト レリンスキは大野和士のロシア音楽へのアプローチを、「感傷に流されない強固で知的な構築」と絶賛し、『ボリス・ゴドゥノフ』を長い時間をかけ、共同作業で準備。オペラ界最先端の黄金コンビにより、『ボリス・ゴドゥノフ』が人間ボリス・ゴドゥノフの、今日の世界を覆う不安や父と子の絆とコンプレックスを描く大きな物語として、圧巻の人間ドラマへと変貌させる。
オペラの現代性を発信し続ける新国立劇場から、世界のオペラの最前線を飾る新たなプロダクションが世界初演を迎える。

皇子を殺害し帝位を手にしたボリス・ゴドゥノフは罪の意識に苛まれ、結果として人生の意味も権威も信じることができなくなっていく。過ちを犯したことによって息子へ抱く罪悪感。トレリンスキは父ボリスと、帝位を継ぐべき唯一の拠り所であり、それ故に不安材料でもあり、自らの不完全さを思い起こさせる存在である息子との関係に大きくクローズアップし、父と子の愛情とコンプレックスを描く大きな物語を誕生させる。


パンデミックや戦争により世界が行き詰まることを目の当たりにした今日、「明日はないかも知れない」「二度と同じことはないかも知れない」という不安に覆われている世界。トレリンスキは飢饉や疫病の“動乱の時代”の不安と、父子の個人的関係を『ボリス・ゴドゥノフ』の中心的要素と捉えて、手に汗握る圧巻の今日的ドラマへ変貌。
なお、『ボリス・ゴドゥノフ』には複数の改訂版があるが、今回の上演では1869年の原典版と1872年の改訂版を折衷して上演。

舞台上にいくつかのキューブ。無機質な印象。ゴドゥノフ始め、登場人物たちの衣装は今日的なファッション。ボリス・ゴドゥノフは実在の歴史上の人物で、1551年生まれで1605に死去。日本はちょうど戦国時代から関ヶ原の合戦、その後徳川家康によって江戸幕府が生まれた。ロシアもちょうど動乱の時代で、1613年にロマノフ朝が開始する。現代はパンデミックが起こり、そして程なくして戦争が始まった。プロローグではボリス・ゴドゥノフはよろよろと登場する。

着ているものもちょっとよれっとしている。彼の息子は障がいがある、彼の世話は大変だが、彼のそばにいないとゴドゥノフは精神的に崩壊してしまうからだ。戴冠式を間近に控え、支配者としての恐怖心がある。だが、外では弱々しいところは見せられない、側近のシチェルカーロフやシュイスキー公、他の参謀、娘のクセニアの目には無慈悲に映る。戴冠式の彼の演説は人々の心を掴む。その6年後、ピーメンは僧グリゴリーに自分こそ現皇帝に殺害されたドミトリーの生まれ変わりと信じ込ませていた。

キューブが様々に変化する。自在に動き、映像が映し出されたり、あるいは”部屋”になったり。ゴドゥノフは先帝の息子を殺害している、己の手中に権力を納めるために、国を治めるために。日本の戦国時代もそうだが、国を強固にするために親兄弟を殺害する。ゴドゥノフは、それによって心的外傷後ストレスを患う。これは体験の記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態。精神が衰弱し、誰も信じられなくなるゴドゥノフ、権力を手に入れたというのに壊れていく。その過程が痛い。

そしてゴドゥノフとその息子との関係、父であるゴドゥノフは息子が障がいを持っていることを自分の罪と思う。精神が病んでいくゴドゥノフ、息子の姿から殺してしまった皇子の姿(幻)が見えるように。ゴドゥノフという人物のキャラクターが透けて見えてくる。ピーメンはゴドゥノフの政敵、民衆を操り、グリゴリーを洗脳させる。そのグリゴリーはゴドゥノフとは違い、平気で人を殺す、僭称者。偽のドミトリーとなる。ラストでは、彼の本性が露わになる。それは酷く悪魔的、衝撃的なシーン、それだけでその後、国はどうなるのか、戦慄を覚える。

主演のギド・イェンティンスはバス、イタリアオペラなどはカストラートやカウンターテナーなど高音域の歌い手が主要キャラクターを演じるが、この『ボリス・ゴドゥノフ』はバス。見どころは第一幕のボリスのモノローグ「私は最高の権力を手に入れた」、第二幕の「ボリスの苦悩」など。またビジュアル的にも秀逸で、映像作家らしく、ドキュメンタリーのような映像、舞台の上手下手にカメラマンがおり、舞台上部にその表情が大きく映し出されたり。それが、あたかもノンフィクションのような空気感を醸し出す。また、映像と映像を重ねて、それを一体化。それぞれの思惑がはっきり観れるので、オペラ初心者でもわかりやすい。

ムソルグスキーは「ロシア五人組」の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類される。『ボリス・ゴドゥノフ』は上演に大人数を要し、日本で制作されることは極めて稀。原語(ロシア語)上演、演出付きで全曲が制作・上演されるのは初めて。イタリア・オペラやベルカント・オペラのような派手なタイプではないが、ロシア語の独特のレチタティーヴォを是非とも体験して欲しい。

<ものがたり>
【プロローグ】
戴冠式を前に群衆が集まっている。ゴドゥノフは最高位の僧ピーメンと緊張関係にあるが、儀礼的にその指輪に口づけをする。 幼いドミトリー皇子の死の幻影に慄くゴドゥノフだが、戴冠式の彼の演説は人々の心を掴む。
【第1幕】6年後。ピーメンは僧グリゴリーに、自分こそ現皇帝に殺害されたドミトリーの生まれ変わりと信じ込ませていた。宮殿へ向かうグリゴリーは二人の僧と共に宿屋に立ち寄る。追手が到着するが、僧たちに惨殺される。
【第2幕】ゴドゥノフは数年の支配に疲れ切っている。娘クセニアは婚約者の死を悼み、息子フョードルは、将来の自分の治世の展望を話して、 父の涙を誘う。ゴドゥノフの臣下シュイスキーは、皇帝の弱みに付け込むことを思い立ち、ゴドゥノフにウグリッチで目撃したことを克明に語り 聞かせる。彼の地での行為を思い起こすゴドゥノフの前に、死んだドミトリーの天使のような姿の幻影が現れる。宮殿に迫るドミトリーの詐称者は、復讐の天使なのだろうか。
【第3幕】ゴドゥノフはまたも悪夢を見る。ウグリッチから来た子供たちがゴドゥノフを取り囲む。フョードルが憎しみに満ちた目で父を見る。父 の罪を非難しているのだ。フョードルは高熱で朦朧とし、「ゴドゥノフがドミトリーを殺害した」という聖愚者による糾弾を繰り返している。 無秩序状態の議会へゴドゥノフが登場。シュイスキーは狂乱寸前の皇帝を嘲笑う。ピーメンが人々の病を癒すという亡きドミトリーの幽霊の話をし、ゴドゥノフを挑発する。ゴドゥノフは苦しみながら己の罪を告白する。そこへドミトリーの名を語る詐称者グリゴリーが登場、議会は混乱に陥る。死を悟ったゴドゥノフはフョードルを呼び、お前がすぐ支配者になるだろうと力づける。
【フィナーレ】
集団の暴動が連鎖する中、ドミトリーの詐称者は自らが新たな皇帝であることを宣言する。
*本あらすじは演出に準拠。

概要
日程会場:
2022年11月15日(火)/17日(木)/20日(日)/23日(水・祝)/26日(土) 新国立劇場 オペラパレス
※約2時間45分(休憩含)
指揮 大野和士
演出 マリウシュ・トレリンスキ
出演
ボリス・ゴドゥノフ ギド・イェンティンス
フョードル 小泉詠子
クセニア 九嶋香奈枝
乳母 金子美香
ヴァシリー・シュイスキー公 アーノルド・ベズイエン
アンドレイ・シチェルカーロフ 秋谷直之
ピーメン ゴデルジ・ジャレネリーぜ
グリゴリー・オトレピエフ(偽ドミトリー)工藤和真    他
合唱指揮  冨平恭平
合唱 新国立劇場合唱団
芸術監督 大野和士
共同制作 ポーランド国立歌劇場
主催 文化庁/新国立劇場

公式HP: https://www.nntt.jac.go.jp/opera/borisgodunov/

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場