2007年にピュリツァー賞を受賞した戯曲「ラビット・ホール」(Rabbit Hole)は、傷ついた心が再生に至る道筋を、家族間の日常的な会話を通して繊細に描いた作品。2010年には、ニコール・キッドマンの製作・主演により映画化もされ、数多くの映画賞を。この物語を、注目を集める藤田俊太郎の演出と、最高の俳優たちの競演で、この4月にPARCO劇場ほか、秋田、福岡、大阪で。
出演陣では、主役ベッカには今回が舞台初主演となる宮澤エマ。舞台に留まらず大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をはじめ、その確かな演技力で近年映像でも活躍。夫ハウイーを本年度の「紀伊國屋演劇賞個人賞」の成河。妹イジーは蜷川幸雄の「ネクスト・シアター」出身の土井ケイト。事故を起こした高校生ジェイソンは「7ORDER」のボーカルで舞台などでも活躍の阿部顕嵐と、オーディションで抜擢された山﨑光がWキャストで。ベッカとイジーの母ナットを、数多くの演出家から厚い信頼を集めるシルビア・グラブ。
物語の舞台は若い夫婦ベッカとハウイーの家。舞台上はリビングとキッチン。4歳の幼い息子を事故で亡くした。繊細なピアノの音で始まる。ベッカと妹のイジーの会話。冷蔵庫のドアに子供の描いた絵が貼ってある。両親と自分の3人を描いたもの、仲睦まじい家族であったことがわかる。だが、息子はいない。他愛のない会話からベッカの心が透けて見える。
埋めようもない喪失感、夫のハウイーは、”悲しみの沼”に落ちてはいけないと思い、時には明るく振る舞う、その姿に心が痛む。
ベッカの母親・ナット、娘の家を訪問、内心、娘が心配なのがよくわかる。イジーの誕生会、部屋を賑やかに飾り付け、夫婦とイジーとナット、ケーキを食べたり、誕生日プレゼントを用意したり、だが、途中でちょっと空気が悪くなる。そんなある日、事故の車を運転していた高校生ジェイソンから手紙が。
タイトルにもなっている「ラビット・ホール」、直訳すれば「うさぎの穴」、英語でrabbit holeは、比喩的に日常(こちら)と非日常(あちら)を結ぶトンネル的に使われるが、別の意味もある。もう一つの意味は”迷い込んだら抜け出せない底なし沼”。行けども行けども終わりがない。息子を事故で亡くした喪失感や悲しみは、そう簡単に消えるわけではなく、むしろ”沼”。ベッカとハウイーは、その”沼”に落ちてしまった。その感情に対しての対処の仕方が真逆で、時には言い合いになったりもする。家には子供のものと思われるおもちゃ。母親とベッカ、異なる価値観、そんなことも会話で見えてくる。
日常会話、リアルな演技が求められるが、キャストのバランスもよく、ナチュラルさを感じる。息子が亡くなった、という事実は消えないし、哀しみはこれからも続いていくのだということは容易にわかる。そこにあるのは、それとどう向き合っていくのか、だ。もちろんバッドエンドにはならないし、冒頭から、それはわかっている。そこに至るまでの過程、人は多くの感情と思いと涙を背負ってこれからも生きていく。
ゲネプロ前に簡単な会見があった。キャスト陣と演出の藤田俊太郎。デビューしてから10年という宮澤エマ、しかも初主演、初座長。「2013年に初舞台、ちょうど10年。主演で舞台に立たせてもらえるんだなと…本当に素晴らしい作品に巡り合えました。こんな条件の中で初主演させていただけること、いかに幸せなことかと。最初から仲良くやれているカンパニー。この作品を皆さまにお届けできること、ワクワクしかない。いろいろな人にとっての喜びが詰まった作品に」と語った。
成河は「写実的、いわゆるリアリズムと言われる作品は日本は苦手と言われていますね。どういうしゃべり言葉がいいのか、とにかく間口を広げるためにやってきまして。派手な照明、音声もいらない。超一流のスタッフワークに支えられて、派手さのない会話劇が人生の支えになるんだということを」と語る。日常会話の連続の戯曲。
主人公の妹を演じる土井ケイトは「本稽古が始まる前から、会議のように話し合って言葉を細かく作ってきました。すごく生(なま)じゃないと成立しない、ものすごく生な舞台になっている。言葉に逃げられない、その場で感じないといけない…このカンパニーでこそなしえた。お客さまに、この舞台がどう見えたか問いてみたい…」と語ったが、セットもどこかで見たような家の中、派手な身なりではなく、どちらかというと地味めな普段着な登場人物たち。
ジェイソン役はダブルキャスト。阿部顕嵐は「本当にすてきな作品とすてきな人に出会えて幸せ。Wキャストなので、客席で見ていて、鈍く重いような痛みが自分のの中で消化できなくて、何日間も考えるような作品」とかたり、同じくジェイソン役の山崎光は「明日が初日で、うれしい。僕はまだまだ未熟、これからも改良していく余地がある。こんなすてきな人たちと一緒で、メチャクチャうれしい」とコメント。シルビア・グラブは「私は1つの小さな種から、水を与えて育っていく様を愛情深く見つめています。お客さまが入って、成長していく過程を見るのはメチャクチャ楽しみ」とコメント。
演出の藤田俊太郎は「戯曲がとても素晴らしい、魅力的。戯曲の構造だけじゃなく、悲劇からの再生、言葉の向こう側の魅力に引かれました。リアリズム、このカンパニーで演劇の美しさについて、ありとあらゆる形でディスカッション出来たのが美しいことだと思っています」と語った。
また宮澤エマは「ものすごい悲劇のように思えるけど、悲劇的な事柄の後に一生懸命生きたいと思っている愛すべき人と、加害者になってしまった人の物語。一生懸命生きようとするから、衝突がある。ひと言では言い表せない感情を持って劇場を後にすると思う。唯一無二のこの作品にしかない体験をして帰ってもらえると思います」と作品について語った。
誰にでも起こりそうな悲しい出来事、亡くしたものは戻ってこない。そこから人はどう立ち上がるのか、あるいは立ちあがろうとするのか、結果ではなく、その過程。簡単には抜け出せない「ラビット・ホール」、無理やり抜け出すのでもなく、ある意味、抜け出さなくてもいい、そこに一筋の光があればいい。そう思える作品であった。
ストーリー
4歳のひとり息子を亡くした若い夫婦ベッカとハウイー。息子は、飼い犬を追いかけて飛び出し、交通事故にあった。ふたりの悲しみへの向き合い方は真逆で、お互いの心の溝は広がるばかり。妻ベッカは、彼女を慰めようとする妹や母親の言動にもイラつき、深く傷ついていく。ある日、事故の車を運転していた高校生ジェイソンから会いたいと手紙が届く。それを読んだベッカは……
悲しみの底から、人はどうやって希望の光を手繰り寄せるのか。人間の希望の本質とは何か。「ラビット・ホール」は、わたしたちの身の回りのありふれた風景や会話から、確かな希望の光を鮮やかに紡ぎ出します。
概要
ラビット・ホール
作:デヴィッド・リンゼイ=アベアー
翻訳:小田島創志
演出:藤田俊太郎
出演:宮澤エマ 成河 土井ケイト 阿部顕嵐/山﨑光(Wキャスト) シルビア・グラブ
日程会場: 2023 年 4 月 9 日(日)〜4 月 25 日(火) PARCO劇場
問合:03-3477-5858 https://stage.parco.jp/