2020年に上演予定だったNISSAY OPERA 2022『ランメルモールのルチア』が2022年ようやく上演されることになった。ガエターノ・ドニゼッティが1835年に作曲したイタリア語のオペラ。同年、ナポリのサン・カルロ劇場で初演。政略結婚によって引き裂かれた恋人たちの悲劇を描いている。
2020年はコロナ禍が始まった年、これを翻案し、オペラ『ルチア〜あるいはある花嫁の悲劇〜』として日生劇場だけの特別版として上演。悲劇の花嫁・ルチアに焦点を絞って新たな角度から描き、上演時間も休憩なしの90分。そして、今回は満を辞しての“フルバージョン”となる。2020年版も手がけ、今回も演出を担う田尾下哲さんのインタビューが実現した。
――2020年版上演の感想をお願いします。
田尾下:2020年の11月はコロナ真っ最中。どのような上演形態ができるか直前までわからなかったんです。そのうえで安全性を考慮して、1人の人が歌って演じて、もう1人が役者さん。ほかのソリストの方々は舞台の横で紗幕越しに歌ってもらうということにしました。今までとはまったく異なる、意図的に行うことのない形式でした。かつオーケストラピットにも全員入れられなくて、金管楽器が入らないのでピアノで代用したりしまして…試行錯誤でした。そういうことがありましたけど、今、私達がこのコロナ禍を3年間経験してきたうえで一番理解していることは、やはり舞台上に人が多いこともさることながら、稽古日数なんですよね。稽古の日数が長くなればなるほど、同じメンバーがずっと同じ空間にいるのが感染の上で一番危険なのだと。その中で我々としては、表現としてはあれしかなかったんだと、間違っていなかったと信じています。
具体的にどうだったかというと、制約があることはすでに引き受けていましたので、ならば「ルチアの悲劇」を集中的に描けばよい。その表現方法として「常に彼女が舞台上にいる」という形を作ったんです。他の人が歌っているときでも、そのとき彼女が何を考えていたのかがお客様に伝わるだけでなく、お客様は絶対に彼女を観ざるを得ないんです。エドガルドとエンリーコが歌っているときにも、ルチアだけがいるんですね。他の人がいたとしても紗幕の裏。つまり、完全にルチアしか観ることができないし、彼女が時間の中でどのように追い込まれていたのか。そして男たちは姿が見えないから、より不気味だったと思います。政治的な道具にされてしまったルチアの悲劇というサブタイトルで上演しましたが、それが伝わったと思いますので、達成感はありましたね。そして、オペラってなかなか全曲を観ていただくにはハードルが高い。今は映画を倍速でしか観ない人もいるくらいですから。実際、映画館でも2時間半集中できる人って今はほとんどいないと言われていまして、誰かしらが結局スマホを見てしまう。そのなかで、90分のうちに『ルチア』を凝縮して上演できた2020年の初演は、それはそれですごく意味があったんだろうなと思いますし、それが「全編」につながる活動になればいい。なので、2022年に完全版をやらせていただけるということはラッキーだったなとも。2020年版を観た人にこそ、今回の完全版を観ていただきたいと考えています。
また、音楽のカットに関しては慣習のカットが少しあるだけなので「この演奏、実演で聴くのは初めてだな」という部分が数カ所あります。これは、指揮者の柴田さんの決定なのですが、私は一切指定をしていません。すなわち「これでもか」という演奏をしているんですね。音楽的には舞台上にいるすべての方が「歌う」という点であっても意味がありますし、完全に伝わるだろうなと思います。一方、今回も演劇としてはずっと家の中に閉じ込められている、監視されていたり行動も制限されている女性・ルチアの悲劇を描きます。それを発展させて、今回も場面としては部屋の向きを変えたり、置き位置を変えたりはしますけれども。でも、前回できなかったことでいうと、女性の部屋にドカドカ人が入ってくる様子、監視されている様子も描けるだろうと。ルチアはずっと舞台上にいるから、歌手の方にはたいへん負担だろうなとは思いますが。逆に言えばルチアだけじゃなくて、政治の動きなど、彼女の人生が動くなかでどのようなことが起きているか、を可視化できればと。もはや2つ舞台があるような感じでしょうね。部屋と、もう一つ他のどこかといったような描き方ですね。
――家と家の対立、色によってそれぞれの家、考え方を表しているとのことでした。こちらはどうなのでしょうか。
田尾下:明らかにラーベンスウッド家とアシュトン家、これは『ロミジュリ』のキャピュレット家とモンタギュー家のような話なのですが、シェイクスピアと違うのは家のトップが父親じゃなくてメインキャラクター本人なんです。エドガルドとエンリーコが互いの威信をかけて戦う。エドガルドの味方というのは、精神的な助けとしてルチアがいるわけですが、そのほかには誰も出てこないんです。ラーヴェンスウッド家の人たちは音楽的には求められていないので孤立するエドガルドと、エドガルドをやっつけようとするアシュトンの人たち、彼らはエドガルドの領地で暮らしているんですが。それらの対立を描く占領されたラーヴェンスウッド家の空間はシルバー系の色合いになっていますし、エドガルドの衣裳も銀色。本来エドガルドのものだった領地にはいまや他の人がいる、占領された異質感のような描き方ですよね。ラーヴェンスウッド家の領地がアシュトン家に奪われた、という。直接言わないのに直感的にわかるようになっているんです。ルチアとアシュトン家の人たちはブルーで、政略結婚でくるアルトゥーロは紫でといったように。ファミリーごとにざっくりと色が分かれているというのは、理屈でなく視覚的にわかればいいのだと思います。
――たしかに、これで構造的なものは視覚的にわかりますね。
田尾下:前回は、ルチアただ1人だったので、対比するものがなにもなかった。今回は明らかにシルバーのエドガルドに対してルチアとエンリーコは青。彼らの関係性がどんなものなのかわかりますよね。物語としてはエドガルドもルチアも死んでしまうんですけど。それこそ『ロミオとジュリエット』みたいに若い二人の死を悼んで両家が和解を……みたいなことにはならないですが。「犠牲を強いている」というのはきちんと描きたい。『椿姫』もそうなんですが、ルチアは常に苦悩していてまったく幸せな時間が作中にないんですよ。彼女が心から幸せにエドガルドと一緒にいる時間がほとんどないんです。政略結婚であったりとか、彼女の自由を奪うあたりをしっかり描くことでテーマが深まるのではないかと考えています。
――それでは、今回の見せ場である結婚の場面、六重唱、ラストについては、どのようにお考えでしょうか。
田尾下:やはり、最初の二重唱における偽りの結婚についてはルチアのお兄さん、エンリーコは見ていないんです。だけど、彼らが偽りの結婚をしていたときに、じゃあエンリーコはなにをしていたんだ、ということを描こうと思っています。台本にも楽譜にも描かれていないんですけどね。今回は二重の舞台、ということなのでそれができる。結婚という幸せいっぱいの、音楽でも楽しげな曲が流れている一方で、その裏で陰謀が渦巻いていたというような。六重唱に関しては、音楽的には動きを制限されたような、緊張感ある場面なんですけど、なぜ動きを制限する緊張感のある音楽なのかという理由を見せたいと思っています。最後に関しては、舞台上にルチアがやはりいるんですけれども。亡くなってしまったルチアに対してエドガルドとエンリーコがどう絡むのかということですね。
――また、特徴的なのは当時使っていた「グラスハーモニカ」、こちらを使用するのですね。これはポイントなのではないかと思います。
田尾下:今までインスタレーションみたいなものしか聞いたことがなかったんですが。ハープとは音色がやはり違いますよね。透明な音、『ルチア』の舞台で使っているのも聞いたことがなかったし、楽しみですね。当時はグラスハーモニカを用いていたらしいのですが、当然、楽器に合わせて作曲されている部分もありますから。本来、作曲家のドニゼッティが求めた姿を皆さんにお聞きいただけるし、ルチア役のお2人はとくに影響を受けるのではないかと思います。
――当時の楽器を使うことは興味深いですね。バロック期の楽器でバッハの音楽を演奏するような感覚に近い。
田尾下:そうですね。もちろん楽器としてはご質問にあったようなピリオド楽器ではなくて、モダン楽器です。19世紀なのでモダン側ですけど。とはいえ書かれている時期の楽器が作曲家が描いた本来の姿ですから。たしかに未来にこういう楽器ができるということを想定して書いたような作曲家もいますけれどドニゼッティは少なくともそうではない。
また、とくにルチアが狂っている場面の音楽は、実に美しい音楽なんです。この美しい音楽をどういうふうに意図していたのかというのは、アーティストを招聘してこうして上演させていただくという、劇場の方針には感謝していますね。
――やはり、メロディーが印象的ですよね。今風の言い方だと「キツい」場面の楽曲が美しいというのは逆にルチアの悲惨な状況を描くための布石なのかなと思いました。
田尾下:気が狂っているからこそ、無垢な部分が出てくるのは当然あるんですよね。いろいろなしがらみ、エゴを抜きにした、本当に自分の感情が吐露されている状態。もしかしたら、我々が生きていく中で人と比べたりとか、立場を考えたりとか、誰かとの関係を考えているのとは違う、本当に自分の言いたいことを言える、やりたいことをやれる『ルチア』なんです。政略結婚の相手であるアルトゥーロを殺してしまったあとの音楽が「美しい」というのは、そこは『マクベス』的ではない。狂気は狂気であっても、自分がすべてを失ったのちの感情がああなるというのは、恐ろしいですね。
――ある意味「解放された」という解釈なのでしょうか。
田尾下:ええ。狂っているからこそ、無邪気に想像上のエドガルドとの幸せなシーンを描き、一方で目の前にいないのに亡霊に怯えたりだとか。彼女の中での浮き沈みは当然あるんですが、狂うということが彼女にとって一つの感情を押し付けるものではないなと。2020年の上演ではいろいろな感情が彼女に浮かんでいると思いましたね。だから、本人たちも狂っているという演技をする際に、歌唱はもちろんなんですけれどやはりなにか「冷静になったらダメだ」という思いがあったんでしょうね。とはいえ最後は舞台から転がるなんて場面もありましたから冷静にならざるを得ません。でもルチアとしては計算ずくには見えないように、歌のテクニックでものすごいことをやりながら、演技、身体表現、安全面などすべて気を配っていたからもはや極限状態だったのではないでしょうか。特別な歌手だと思います。
――それでは、最後にメッセージを。
田尾下:オペラというのは、生の演奏を劇場中に響かせて演奏するものなんですね。音楽と芝居が合わさったとき、人が苦しみ、悲しみ、喜び、と感情面をも表現する。それは日常では決して味わえない、デジタルでは味わえないものなんですね。すなわち複製ができない。それこそ100mを9秒台で走るような、歴史的な瞬間を見られるのと同じなんです。彼らの歌、とんでもないんですよ。普通の人が歌うのとはぜんぜん違う、響かせ方を聞ける機会がこの作品にある。好きか嫌いかというのを判断する前にまず体験してほしいです。そしてドラマ、音楽。身体がもたらしたときのもつ迫力というものを。特に『ルチア』という作品は超絶技巧で知られる快作なんですよ。ソプラノも、バリトンもテノールもそれはそれはすごい歌を歌うんですね。ベルカント・オペラと呼ばれる歌唱に重きをおいたオペラというのを、ぜひ体験してほしいですし、聞かないのはもったいないと思います。これはまったく大げさではないです。
あとは、物語の部分。理不尽なことが過去にはあったということ。これだけ1人の女性が追い詰められて政治の道具にされていた時代があったんです。でも、今ではそれではいけないし、おかしいことはおかしいと言えるようになりたいよねと言えるような、感想を持っていただければいいなと思います。
――ありがとうございました。公演を楽しみにしております。
<あらすじ>
17世紀のスコットランド、ランメルモール地方。アシュトン家の令嬢ルチアとラヴェンズウッド家当主エドガルドは、敵対する家同士でありながら、ともに愛し合っていた。しかし、ルチアの兄エンリーコは二人の関係を許さない。彼は、傾いた家運の立て直しと宿敵エドガルドの破滅とを目論み、妹ルチアに他の貴族との結婚を強要する。封建的な力と憎しみの連鎖によって、自由を奪われたルチア。彼女を待ち受ける運命は、血塗られた婚礼、そして狂気の深淵だった…。
2020年に翻案上演したベルカント・オペラの傑作を、「完全版」で堂々上演!
<2020年レポ記事>
概要
NISSAY OPERA 2022
『ランメルモールのルチア』
全2部3幕 原語[イタリア語]上演・日本語字幕付
日程・会場:2022 年 11 月12 日(土)・13 日(日) 各日14:00開演 日生劇場
指揮:柴田 真郁
演出:田尾下 哲
管弦楽:読売日本交響楽団
出演:
11/12
ルチア 高橋 維
エドガルド 城 宏憲
エンリーコ 加耒 徹
ライモンド ジョン ハオ
アルトゥーロ 髙畠 伸吾
アリーサ 与田 朝子
ノルマンノ 吉田 連
11/13
ルチア 森谷 真理
エドガルド 宮里 直樹
エンリーコ 大沼 徹
ライモンド 妻屋 秀和
アルトゥーロ 伊藤 達人
アリーサ 藤井 麻美
ノルマンノ 布施 雅也
11/12,13
泉の亡霊 田代 真奈美
グラスハーモニカ(ヴェロフォン):サシャ・レッケルト
カヴァーキャスト ルチア:相原 里美 エドガルド:髙橋 拓真
公式サイト:https://opera.nissaytheatre.or.jp/info/2022_info/lucia/